チャプレンからの今週の言葉チャペル

2024.5.27

五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。
(使徒言行録 2章1~4節)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

 先日の5月19日は、教会暦では聖霊降臨日(ペンテコステ)という祝日でした。復活日(イースター)、降誕日(クリスマス)を含め、教会の三大祝日とも言われます。立教学院諸聖徒礼拝堂(チャペル)では、復活日、降誕日と同様、この日を覚えて礼拝がささげられました。

 聖霊は、イエスの目に見えない働きです。聖霊は、私たちと共におり、私たちが主イエスの「証人」として今を生きるよう促します。ときには「激しい風が吹いて来るような音」の中に、「静かにささやく声」として語りかけられます。
 神は、悩みながらもひたすら祈り求めていた弟子たちに「今も生きて働く神の力」を与えました。彼らは聖霊に満たされたのです。さまざまな国から来ている人々も、言葉を越えて、心が通い合いました。一致が生まれていきます。目標めざして前進が生み出されます。たとえ多くの困難が想定されてもわたしたちには「助け主、弁護者」がいるのだという確信が、迫害のなかにあっても教会を存続させてきたのです。
 
 最後に『こどもさんびか』の「ふしぎなかぜが」という曲を紹介します。聖霊降臨日の教会学校でよく歌われており、子どもたちも大好きな歌です。なんとなくワクワクします。

 ふしぎな風が ぴゅとふけば
 なんだかゆうきがわいてくる
 イエスさまの おまもりが きっとあるよ
 それが聖霊のはたらきです
 主イエスのめぐみは あの風とともに  (こどもさんびか94番)

神様は私たちに「聖霊」という不思議な風を送ってくださいます。神からの不思議な風を受けて、今週も歩んでいきたいのです。

2024年5月27日
2024.5.20

彼らは神の手も、神が苦しめる者から贖ってくださった日も、思い出すことはなかった。
(詩編 78編42節)
立教大学チャプレン 浪花 朋久

 少し先の未来が想像しやすくなった今日、私たちは様々なものを準備できるようになりました。しかし、その一方で受け入れがたい予想もたくさん出てきています。特に挙げられるのが、健康の予測です。偏った栄養の食事を続けたり、よく噛まずに飲み込んだりすることを習慣にしていると、近い将来、必ず病気になります。こう聞いても「苦しいのは死ぬ瞬間だけだ」とか「そんなことを気にしていると楽しめない」と考えてしまう方もいらっしゃるでしょう。「こう考える皆さん、一度、今の生活を続けた自分の健康状態を予想してみてください!」と言いたいところですが、想像するにしても、想像するための情報が必要です。私たちは自分に不都合な情報を避けがちです。ネット上では興味がある情報を簡単に得ることはできますが、不都合な事実からは離れやすい傾向があります。現代は近い将来を簡単に予測できる反面、そこから目を背けやすい社会になっているのも否めないのかもしれません。しかし転ばぬ先の杖は、あるに越したことはないのです。
 冒頭の旧約聖書?詩編の言葉は、神様の救いによってエジプトでの奴隷状態から解放されたイスラエル人たちが、神様からの救いを忘れたことを嘆いた言葉です。イスラエル人たちは神様に進むべき道を示されたのにもかかわらず、目先の幸せだけを求めました。その結果、他の部族に攻撃されたり、食料に苦しんだりする生活を送ることもありました。彼らはその度に神様に立ち帰り、再び神様に救われるのですが、それに慣れてしまうと、また目先の幸せに走るという負の連鎖を続けました。神様から何度も示される道は予想できる道となります。しかし人間は、不都合な将来の不安を無視し、刹那的な喜びに身を投じ、そして最後に後悔するのです。わざわざ苦しい人生を送って後悔するよりも、予測できる困難を回避できる人生の方が遥かに良いと思うのは私だけでしょうか?
 将来のことを考える時、ある程度の予測をしてみましょう。そこには目を背けたくなるような現実がたくさんありますが、それら一つ一つを受け入れることで、それが必要だと理解できるようになります。動画を見て過ごす時間を5分短くして、その5分を未来予測の時間にすることで皆さんの人生は大きく変わります。予測しやすい社会だからこそ、未来は変えられるのです。転ばぬ先の杖は目の前にあります。その杖を手に取れるように、刹那的な喜びの5分を未来予想の時間に変えてみましょう。

2024年5月20日
2024.5.13

「子どもたちを私のところに来させなさい。」
(マルコによる福音書 10章14節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「立教にとって児童の存在は」

 立教学院創立150周年の記念事業として、立教小学校の新校舎建設工事が始まりました。建設期間中、児童たちは、西武池袋線「椎名町駅」からほど近い、旧真和中学校に一時移転して学びの時を過ごします。新校舎の竣工は2027年4月が予定されています。

 その工事に伴って、この4月から、登下校時、立教通りを行き交う立小生たちの姿が消えました。立教の小中高大生が入り交じって、立教道りをキャッキャッ騒ぎながら、ときに道幅いっぱいに、ときに他の通行なさる方の迷惑になりながらも歩いて往く様は、立教の一貫連携教育の一つの象徴であるかのようにわたしの目に映っていました。その意味で、立小生たちの姿が立教通りにないのは、少し寂しい気もしますが、3年後、真新しい校舎に向かって歩く、立小生たちを想像しながら、その日を待ちたいと想います。そして、工事期間中は工事関係者の方々の安全を日々祈りたいと想います。

 立教の一貫連携教育は、真理を探求すること、そして、他者と共に生きることを?その基調としています。イエスは、「子どもたちを私のところに来させなさい」と語り、続けて「神の国はこのような者たちのものである」と教えました。子どもたちが決して、教えられる対象ではなく、ときに大人の師になることをイエスは諭します。立教も、自らをして、「神の愛に倣う?愛のある人」で在り続ける?不断の努力を怠らず、ここに学ぶすべての者を教える対象としてではなく、共に、愛のある人になって往くための、その真理を探求する旅の〈同伴者〉であると理解します。そうした、わたしたちの歩みに児童の存在は不可欠なのです。児童から愛を学ぶためです。

 真理を探求すること、そして、他者と共に生きること。今年、創立150年を迎えて、立教は、ますますこの使命に忠実であることを、校内外に約束しました。主なる神が、これからも変わることなく、わたしたちと共に歩み続けてくださることを。そして、わたしたちが、開学以来、貫いてきた、真理探求と、他者と共に生きることを通して、隣人への愛に生きるようにとの、御子イエスの愛をこの世界に告げ、神の愛に生きる人びとを育むとした、わたしたちの教育、学術研究、その働きを全うできるようにと、共に祈り合いたいと想います。

2024年5月13日
2024.5.6

「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」
(マタイによる福音書 7章12節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 自分のことで精一杯、他人のことなど気にする余裕がない。
自分の能力の限界を超えるような出来事に直面したとき、またどうしても解決しなければ前に進むことができない問題が立ちはだかるとき、私たちは自分のことで精一杯になります。そしてその解決の方法が見つからないとき、人は力を失い、身動きが取れなくなるということがあります。
 私は病に苦しむ人の前で、自分ではどうすることもできない無力さに直面し、「助けてください、救ってください」との想いが心に満ちた経験をしました。まさに「祈るように」その日々を生きた記憶が鮮明に残っています。
 祈りとは何でしょうか。祈ったからといって直接的に問題が解決するわけでもなく、助けられたり、救われたりするわけではないかもしれません。しかし自らの限界を引き受け、足りない部分を認め、それでもなお「心から想うこと」が祈りなのではないかと私は考えています。それは内向きで自己本位な願掛けではなくて、自分の外(例えば神)に、心の声を投げかけていくことでもあります。
 イエス?キリストは、神に祈るようにと教えた後に、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と語られました。それは、自分のことで精一杯な私たちだからこそ、互いの祈りの声を聴き、協力し、配慮し合うこと、そして共に生きることの大切さを伝えようとしているのだと思います。
 人を想い、共に生きることで、精一杯な自分が解かれていくのではないでしょうか。

2024年5月6日
2024.4.29

「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。
(マルコによる福音書 10章45節【口語訳聖書】)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

 創立者ウィリアムズ主教が中国経由で長崎に来日したのが1859年、その後主教は1874年に築地居留地の一角に立教学校を開設、主教45歳、これが今日の立教学院の初めである。
 来週5月11日(土曜日)、立教学院創立150周年記念感謝礼拝が立教学院諸聖徒礼拝堂(チャペル)で、午後には150周年記念式典がタッカーホールで行われる。立教に連なるすべての人が、創立の精神を想起できればと願う。

 ウィリアムズ主教が世を去って56年、立教学院創立93周年の時、池袋キャンパスのチャペル西庭に、ウィリアムズ主教の銅像が建立された。この同師像は、立教に建学の精神が保たれるようにと校友連合会から寄贈されたものである。製作は彫刻家?三坂耿一郎氏(日本芸術院会員)による。1967年5月18日、ウィリアムズ主教銅像除幕式が行われた。台座の碑銘には、次のように記されている。
  人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、
  また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。
      立教学院創立者 主教ウイリアムス之像
      昭和四十二年五月十八日建立
 これは当時の立教学院理事長八代斌助主教筆による。また聖句の選択も同師と思われる。聖書のマルコによる福音書10章45節からの引用であり、当時の口語訳聖書が用いられている。また同様の言葉は、マタイによる福音書20章28節にもある。

 ここでは本当の謙遜とはいかなるものかと語りつつ、イエスご自身の使命を弟子たちに指し示している。「仕えるため」「自分の命を与えるため」の歩み、これがイエスの生涯であった。このイエスの言葉を、ウィリアムズ主教に重ね合わせ、この聖句が選ばれたと推察される。日本在住50年、熱意ある開拓精神、切りつめた生活、業績を誇らない謙虚さ、自分ではなく神に栄光を帰する歩み、その生涯は「道を伝えて己を伝えず」この言葉に集約される。ウィリアムズ主教は、謙遜をもって人々に仕える姿勢を最後まで貫かれたお方であった。

 最後にこの聖句の文脈をより理解するため、前節も含め近年の翻訳で引用する。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
(マルコ10:43~45)『聖書協会共同訳』(2018年発行)

2024年4月29日
2024.4.22

働きにはいろいろありますが、すべての人の中に働いてすべてをなさるのは同じ神です。一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
(コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章6~7節)
立教大学チャプレン 浪花 朋久

 新生活が始まる中、SNSで友人?知人たちが自分よりもきらびやかな生活を送っていたり、自分より優れた能力や才能を発揮したりしている姿を見ると、「自分もこうなりたい」、「この人たちよりもっと上のレベルになりたい」と思うことがあるかもしれません。あるはい入学して同じスタートラインに立っているはずなのに、既に先を行く同級生の姿を見て刺激を受けることもあるでしょう。しかし全員がインフルエンサーになれる訳ではありませんし、誰もがドラマやアニメの登場人物たちのように脚光を浴びる訳でもありません。そして残念ながら、私たちには願っても頑張っても望む姿になれないことが多くあります。その度に他人と自分を比較し、余計に落ち込んでしまう人もいるでしょうし、この世界が他人と比較する?される世界であることに失望することもあるでしょう。
 立教大学の守護使徒パウロは、冒頭にある聖書の言葉で、教会の中に様々な能力を持った人々がいることを記しています。これを読むと、有能な人物は一人だけではないということがわかります。大きなことが何も出来なくても、備品を管理する小さな奉仕や援助も大切な能力の一つなのです。しかし私たちは、高い能力だけに注目して低い能力を否定的に見がちです。そもそも能力の「高い?低い」は誰が、そしてどの様な基準で決めているのでしょうか。パウロが示しているのは、一人ひとりに神様から与えられた力があるということなのです。一方で私たちは、自分に与えられた力だけを見るのではなく、他人の能力と比較しがちです。しかし自分が、他人から能力が低いと決めつけられるとどう思われますか?少なくとも良い気持ちになれないはずです。ここで大切なのは、能力を比較することではなく、それぞれの人に「与えられた力」に気づくことなのです。
 充実した大学生活を過ごせないのは、能力が低いからでしょうか?決してそうではありません。自分の能力や才能のなさに落ち込んでしまうことはありますが、大切なのは皆さんにしかできないことが必ずあると信じることです。他人と比較し合う世界であっても、皆さんは「あなたと一緒にいることができて良かった」と言われる力を神様から与えられています。その力を是非、見つけてください。

2024年4月22日
2024.4.15

「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」
(ヨハネによる福音書 8章32節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「汝自身を知れ」

 この春、立教大学は、3年次編入学者を含む学部生4,836名、大学院博士課程前期課程481名、後期課程46名、計5,363名を、本学の新しい構成員として迎え入れました。新入生の皆さん、入学おめでとうございます。皆さんのことを、学びの友として、新たに迎えられたことを心から嬉しく想うと共に、これから皆さんと共に歩んでいく真理探究の旅路が豊かなものとなるように祈ります。

 さて、立教大学池袋図書館のメイン?エントランスの上方には、「γν?θι σεαυτ?ν/汝自身を知れ」との言葉が掲げられています。「γν?θι σεαυτ?ν/汝自身を知れ」この言葉は、デルポイのアポロン神殿の入口に刻まれていた古代ギリシャの格言です。そして、ソクラテスが真理を探究する、その旅の出発点とした言葉とも云われています。「汝自身を知れ」自分自身の何を知るのか????? それは、「自らは何も知らない」ということ、自らの無知についてです。ソクラテスが、古代ギリシャ社会において、最も賢い人間であると云われたのは、「知らない」ことに対して謙虚であったからです。逆に、古代ギリシャ社会が徹底して批判したのが「不遜」です。自らの無知を自覚せず、身の程を弁えず、何でも「知っている」、何でも「判っている」ということが、最大の不遜とされたのです。

 わたしたちは、気が付かないうちに、特定の「枠組み」の中で、物事を考えたり、判断したりする傾向にあります。しかし、その特定の「枠組み」????? いわゆる、「常識」とか、「当たり前」と考えられているものは、ほんとうに「当たり前」なのでしょうか。わたしたちが、「知っている」とか、「判っている」と信じて疑わないモノ????? でも、ほんとうに、わたしたちは、真実を知っていたり、判っていたり、しているのでしょうか。当たり前を疑うことの必要。

 知的な探究は、「知らない」を自覚するところからはじまります。
判りません、知りません????? 真理の前における、自らの、そういう謙虚な態度を示すことができる者にのみ、真理は、自らの「知」の扉を開くのだ、ということを、立教に学ぶなら、覚えておいても損はないと思います。

2024年4月15日

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